シリコンバレーから41      渡る世間に鬼はなし       竹下 弘美
 大学生の息子が夏のアルバイトを探していたが、今年は不況でなかなか見つからなかった。やっと得た仕事は証券会社のグレイブヤードシフト(夜勤)で郵便物を出す仕事だった。株の配当のある時期で、投資家達へのステイトメントの発送だったらしい。いくら夜型の息子も夜半、ずっと起きて昼間寝る仕事はつらかったようだ。働いている人達は一時間たったの九ドルだが、何ミリオンという株の配当をもらう人が多くいるという現実、またいろいろな人種の人がいて、中には昼は他で働いていて、夜の十一時半からはその仕事をしている人がいたり、世の中の底辺層と金持ち層とを同時に見る良い機会だったようだ。息子は専門が映画製作なので、この経験を、八分間の映画に作りたいといっている。いつも、大学内では働いているが、今回学生仲間では知ることのできない世界を垣間見ることができたようだ。彼と一緒に働いている人々のことを聞いているうちに、私はアメリカにきて一年目に仕事探しをした自分の経験を思いだした。


 私の場合、学生の夫の配偶者としてのビザで正式に働けるビザではなかったから大変だった。サンデイェゴでウェイトレスをしながら(このときは学校から許可証を出してもらった)アダルトスクールに通って一年をすごした後、夫がコンピューターの専門学校に入るため、学校のあったイングルウッドに引っ越した。授業料が高く、日本からの持ってきたお金はなくなるばかりだったから、私が一日も早く働きださねばならなかった。 引っ越したばかりでロスの地域のことはわからなかったが、仕事探しに毎日走った。トーレンスのトヨタ自動車の本社に行ってみた。ちょうど、社長秘書を求めているということだったが、ビザのことをきかれてダメになった。今でも190ストリートにあるトヨタの会社の前を通るとその情景が再現する。日本のレストランに行った。着物を着たおかみさんが出てきて、すぐ、気にいってくれて、ビザのこともかまわないからとすぐお仕着せの着物を手渡された。「摩れてないところがいいわ。でもここは宴席が多いから、結婚指輪はとってくださいね」と言われた。家に帰って夫と相談して、やはりその仕事はやめようということになった。結婚指輪をしてはいけないことは合点がいかなかった。翌日、着物を返しにいったら、おかみさんはとても残念がっていた。あれはたしか、ガーディナだったと思う。次にはクレンショウの住友銀行に飛び込んだ。次長の方がとても親切にしてくださり、なにしろ、移民局で労働許可を取ってくれば、雇ってくれるという。すぐ、移民局に行った。どこの部署に行ったらいいかわからないので、そこにいた移民局の人に労働許可はどこの窓口に行ったらいいかきいたら、親切にその窓口まで連れていってくれた。その間に夫が学生だというと、「それじゃ、働かざるをえないではないか」とたいそう同情してくれた。窓口で、唯一の働けるビザは永住ビザであり、労働許可というものはないと言われた。私を窓口に連れていってくれたおじさんはその答えをきいて、驚き、その窓口を離れてから、私にこっそり囁いた。「Nobody knows, go ahead and work(誰にもわからないから、気にしないで、働きな)」


 住友銀行に帰ってそのことを報告すると、銀行としてはやはり、違法なことはできないからと銀行で使っている移民弁護士事務所をすぐ紹介してくれた。その足でビバリーヒルズにあるその弁護士事務所を訪ねた。出てきたのはごろつきのような人相の弁護士。私の話をきいて、日本で秘書の経験があったようにでっちあげて、永住権申請をするけれど、前金でまず、五百ドル払うようにといわれた。といってもビザが取得できるかどうかは確約できないというではないか。ギャングのような人達に保証もないのに、五百ドル払うのは抵抗があった。そのころの五百ドルは大きかった。私の脳裏にあの移民局のおじさんの囁きがきこえていた。「誰にもわからないから、働きな」そこで、ダウンタウンの職業安定所を訪ねた。その日のうちに会計の仕事の求人があるから行ってみるようにとダウンタウンの古びたオフィスに行かされた。理知的な中年の白人の女性が出てきて、雇うけれど、加算機を使ったことがあるかときかれた。私はそんなものは見たこともないと正直に答えると、その翌日に職業安定所で加算幾の訓練を受けてくれば、明後日から雇ってあげるといわれた。ビザのことは一言も尋ねられなかった。住友銀行にはお断りし、スプリングストリートの乙仲業の経理部での仕事がすぐに始まった。日本語でも経理のことは何も知らなかった私だ。日本人の姿は一人もなく、ボスに言われても何をしたら良いのかさっぱりわからないで、何回も訊き返した。周りは中国人、フィリピン人、白人、ギリシャ人、黒人とさまざまでだからこそ、私の英語でもやっていけた。意地悪なドイツ人のおばさんも猫のことを話せば優しくなること、孫のことをきけば、相好をくずすおばあさんというようにだんだん英語もわかるようになって、とても愉しい職場となった。その後オフィスがワールドトレイドセンターに移った後も子供が生まれるまで九年間働いた。もちろん、その間に永住権も取得できた。子育てのあと、今は日系企業でパートのおばさんをやっている。ここにも意地悪な人がちゃんといるが、その人とどのように仲良くやるかもまた愉しい。


 思えば仕事を通して、いろいろな人たちに出会った。そして、どの人との出会いも、またどの経験も無駄のものはひとつとしてなかった。息子もきっとそんなことを感じていることだろう。そして思い出の中の人は意地悪な人でさえ、いつも優しくほほえんでいるのは不思議なことだ。

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