シリコンバレーから46      命の重さ、21グラム      竹下 弘美
時は春、日は朝(あした)
朝(あした)は七時
片岡に露みちて
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這い
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事もなし


「この詩、教科書に出ていたのを覚えている?この上田敏の訳がすごいのよね。原文よりもこの訳がいいからこんなに憶えられるのよね」
久しぶりに日本で会った同級生の言葉。先日、クラス会に行く途中での車中での会話だ。
「私たちが子供のころにはこの詩のような平和な平穏な日々があったのよね。今はどう?毎日戦争や殺人、自殺、交通事故、悪いニュースで取り囲まれていて、これからの子供たちの世界が思いやられるわ」


そうだ。この詩のような日々はいつもどってくるだろう。私が日本に滞在していた十二日間、たまたま私が外出した日だけでも二度も列車ダイヤの乱れにでくあわした。皆人身事故によるものだった。自殺だ。昔私が幼いころ、戦後の復興期に当たっていたのだと思うが、やはり、JR(そのころの国鉄)での鉄道自殺がよくあったのを覚えている。こちらでも息子の行っていた高校の校庭の後ろを走るカルトレイン(Cal-Train)、サンフランシスコとサンノゼを結ぶ電車、に高校生が跳びこむ事件がよくある。今年は2回あった。カルトレインでは校庭の後ろの壁をもっと高くすることを考えているというが、問題はそんなことではない。また、この夏、同じ高校出身で大学二年の青年はインターンシップでニューヨークに行っていて、ビルの窓から飛び降り自殺をした。どの場合も何が原因だったか、はっきりしたことはわからない。いつも男子学生だというのも謎である。今、この高校では教師のアンテナを敏感にするように、カウンセラーたちが真剣に取り組み出している。前途有望な青年たちが何故死を急ぐのか。ひとつには、ピア〈仲間からの〉プレッシャー、また、親の期待がプレッシャーになっているのではないかとも言われている。この高校からは毎年、多数がアイビーリーグや有名な大学に行っている。それにしても残された両親家族の思いはどんなだろうか。何があろうと、何をしようと、生きていてくれることがどんなに親にとって嬉しいことであるかを、この子供たちは知らない。


「When bad thing happened to good people」という本を読んでいる。その中に、物事を微視的に見ないようにということが書かれていたが、本当にそうだ。本人にとって大きな事でも巨視的に見たら大したことではないことがよくある。親の私たちは命ほど大切なものはないということを肝に銘じて教えなければならない。子供たちだけではない。この頃、日本では中年層の自殺が多いという。


一方では、この高校の向かい側にあるスタンフォード大学に心臓移植のため、日本から来て移植を待っている若い女性や子供さんもいる。心臓をもらって,生きたいという多くのウエイティングリストの人たちがいるのに、神様からいただいた完全な身体を自ら滅ぼすということがどんなにもったいないことかを、知らせたい。


我が家はエンプテイネスト(子供が巣立って空になった家庭)になって、私たち夫婦は毎土曜日、マチネーで映画三昧の生活を送っている。息子が映画製作を専門として勉強していることから、このごろは製作者の立場から見るようになっている。今週はアカデミー賞受賞監督の「二十一グラム」を見た。とても重い映画であった。交通事故で夫、子供を失った若い未亡人、そのご主人の心臓をもらった大学教授、三人を轢いてしまった、もとアル中でごろつきだったクリチャンのユースカウンセラー。そのそれぞれ善良な三人が交叉して三様のすさまじい生き方を描いたものだった。説明にはこうある。「人ひとりが生きていくということは他の人との相互関連なしにはあり得ない。けれど、もし人が生きようとする意欲があるなら、そのサポートはいつも提供されている。恐れようと恐れまいと、死は誰にでもやってくる。人が死ぬ瞬間に失う体重は、“二十一グラム”。それは、数枚の五セント玉の重さ、板チョコ一枚、ハミングバード一羽の重さ。しかし、その重さは、生き残る人によって受け継がれていく」
生かされている私たちはこの二十一グラムを使って生きていくのだ。


ニューヨークにいる息子に電話した。
「良い映画を作ることができなくてもがっかりしないでね。We love you.だってことを忘れないでね。どんなことがあっても自殺だけはしちゃだめよ」
横で夫が
「やっぱり良い映画を作らなけりゃだめだよ」と叫んだ。