シリコンバレーから58     七転び八起き      竹下 弘美
 二年前に「俎板の上の鯉」という題でこの欄に大人のためのピアノ教室の発表会のことを書いた。あの後私たちグループレッスンの三人は、発表会は懲り懲りと思ったが、レッスンは愉しく続けていた。 なにしろ、先生が良い。自分の好きな曲をやらせてもらえるし、生徒の能力にしたがって楽譜を書き直してくれたり、作曲までしてくれるのだ。安いレッスン料でこんな良い先生はほかにいるだろうか。
 

この二年間、「目標がなければ励みになりませんよ」と先生は再々発表会を促したが、私たち三人はその言葉を聞き流していた。そのおかげで去年は発表会をせずにすんだ。私たちはストレスから開放されるため、また、指を動かすことから、老化を防ぐべくやっているにすぎない。 命を縮めるようなあの恐ろしい体験はしたくない。 というのはあの後、もう一度ピアノで、私はひどい思いをしている。


よせば良いのに、大好きな「ばら色の人生」を弾くことが出来るようになった私は通っている教会でのホームコンサートに飛び入りをした。何故飛び入りかというと、自信がなかったので、本当に弾くかどうか迷っていたからだ。飛び入りで、サプライズしたかったが故に、教会のピアノで練習することもできなかったし、ピアノの先生にも内緒にしていた。家ではよく弾けたことを知っている夫は尻込みする私に、「大丈夫、よく弾けるから弾いたら」と勧めた。この甘言に誘われて、当日まで迷っていたが、思い切って飛び入りをした。その結果は、大変惨めなものだった。慣れないピアノのキイであの発表会の時以上に指が動かなくなり、「どうして、家では弾けるのに」とつっかえながら、聴衆につぶやいたくらいだ。「ばら色の人生」どころか、灰色の人生の敗北であった。この時決めた。もう絶対に人前でピアノを弾くのはやめようと。


 前回の発表会から二年経った今年、ほかのピアノの生徒さんたちは発表会に乗り気で私たち三人が出ないというわけにはいかなくなった。絶対に出ないと決めたあの決意はどこへいったのか、あの惨めな思いから時間が経っているせいか、やはり、挑戦してみようかという気にもなってきていた。その上、あの美しい「冬のソナタ」のテーマ曲、「始めから、今まで」を練習し始めていたせいでもある。この美しい音楽を知らない人にきいてほしいと言う気持ちもあった。あと三ヶ月あるから大丈夫だろう。今度こそ、完全にマスターして発表会に望めるようにとポジティブに考えた。これは私の良いところでもあるが、甘いところでもある。


 三ヶ月はたちまち過ぎた。その間、訪日した折りにも、姉の家のピアノで毎日少なくても一時間は練習した。今回の訪日はピアノの強化合宿のためと他人に言ったくらいだ。今度はあれほど、上がることもないだろう、と少し自信がついてきたようだった。


またその時手に入れた「文芸春秋」の中にあった「左手だけのピアノ演奏」という記事がやる気を起こさせてくれた。ピアニストの館野泉氏はフィンランドでの演奏会の直後、舞台で脳溢血で倒れた。右半身不随となって、二年が過ぎた。絶望の中にいた時に、左手だけのための楽譜にめぐり合う。戦争など諸事情で、左手だけになった人たちのためのものだ。


「弾いてみると大きな海原が目の前に現れた。青く、深い海が悠々とたゆたっている。左手だけの演奏であるが、そんなことは意識にあがらず、ただただ生き返るようであった。自分の手が伸びて楽器に触れ、世界と自分が一体となる」そして、次がすごい。「音楽をするのに、手が一本だろうと二本だろうと関係はなかった」
私と同じやりたくない組の二人にもこの記事を見せて、「やろう」と元気付けた。私たちには両手があるのだ。そして、昔会ったことがある、田原米子さんという方のことを思いだした。鉄道自殺した彼女は片手を亡くし、残された片手には指一本しかなかった。両足もなかった。けれど、それらを器用に使って生き生きと生きていた。彼女の内から出てくる美しさに降参だった。彼女はプラス思考で(もちろん、自殺した後の話だが)無いものを数えるのではなく、あるものを数える、つまり“片手もある、指も一本ある”と感謝して、その残された機能を十分に使っていた。


そうだ。両手がある私は、発表会の日まで、全力をつくそう。人前で上がることを防ぐために、ピアノのある友人たちにお願いして、弾かせてもらいにいった。違うピアノでも弾けるようにした。昔、小さいころ、母がよく学校の行事で舞台に出るときなど、「聴衆は皆、カボチャと思いなさい」といってくれたことを思いだし、上がらないように願った。


そして本番の日はあっという間にきてしまった。会場は前回と同じ先生のお宅。聴衆は夫たちや友人、これであがるのだったら、死んだ方がましだ。ところが、私の前のYさんが途中で、相当難儀した。ごまかすことができない性質はこんな時、不利だ、己が姿をみるようだった。そして私の番。館野泉氏の言うように、世界と私が一体となったか。一体となるどころか、一ヵ所で、止まってしまった。
帰りの車の中で、夫がこれからの練習方法について、講義をし続けた。あれだけ練習しているのに、本番でつまずくのは、私の練習方法に問題があるという結論だった。


電話をかけてきた息子は言った。
「よかったじゃない、一回しか止まらなかったったのなら」