シリコンバレーから61     マッシイッソ?      竹下 弘美
 この年になると、もう美味しい物だけを少量食べたい。決して贅沢な物という意味ではない。日本を訪ねるとすべての物が美味しくて、アメリカに帰ってきたらどうしようと思う。こちらの人は、あまり食べるということを重要視していないのだろうか。私は日本に行くと必ず、チョコレートパフェと石焼芋、ラーメン、鯵の干物を食べることにしている。この前は滞日中、チョコレートパフェを食べ損なったので、帰りの成田空港で食べて、日本でのやるべきことを果たした気がしたくらいだ。


 次元が低い話かもしれないが、やはり、美味しい物を食べるというのは生きる上の、ひとつの楽しみではないだろうか。私は、柿とお煎餅で十分に幸せになる。義父は五十代で亡くなったが、体重がニ百ポンド以上あった人で、かなり食事も気をつけていなければならなかったようだ。それでも、あまりにも早く逝ってしまったので、「こんなに早く死んでしまうなら、好きな物をもっと食べさせてあげればよかった」と残された義母はよく言っていた。ソーダ類ばかり飲む夫に注意をすると、彼は義母の言葉にかこつけて「死んだ後、後悔するよ」と、未亡人になることを恐れている私に口応えする。


 韓流ブームに乗った友人から韓国のテレビドラマのDVD「愛の群像」を借りた。その中で気がついたのは、いつも「ご飯を食べたか」、「何を食べたか」、「美味しいか」、「良く寝たか」、「良く寝るように」、という会話が多いことだ。四十四話もあって、韓国語で英語の字幕つきだから、だいぶ韓国語が耳に入ってきた。中でも「美味しい?」に当たる「マッシイッソ?」は覚えてしまった。 この会話からもわかるように、韓国人は人間の生きる基本である<”寝食>をとても大事にしている国民である。実際、韓国に行った時には、夫の親戚があまりにもご馳走してくれて困った。韓国での風習では食べないと失礼にあたるので、平らげるのに苦労した。また良く食べると、とても喜ばれる。韓国語には、良く食べる子を良い子だとほめる表現があるくらいだ。なるほどと思わされる次のような解説をみつけた。「<食>という字は<人>と<良>という二つの漢字が組み合わさってできています。食べるといいうことは人にとって良いこと、また人を良くするものということなのでしょうか」(日本国際飢餓対策機構ホームページより)。この日本国際飢餓対策機構は、世界の飢餓問題ととりくんでいる。かれらの統計によると世界では一分間に十七人、(うち子供十ニ人)一日ニ万五千人の人が飢えで死んでいるのが現状だという。これを知ったら、美味しい物を少量食べたいなどと贅沢なことを言ってはいられなくなる。実際私たち夫婦も渡米直後、貧しくて大好きなマッシュルームを半ポンドしか買うことができず、いつか食べたいだけというよりも、少なくとも一ポンド買ってみたいと思ったことがあった。また、「たといそうでなくとも」という本の著者、安利淑女史は牢獄の中でひもじく、仲間がくすねて食べている皮のベルトが食べたくて、娑婆に出ることがあったら、思う存分ベルトを食べてやろうと思ったという。


 先の国際飢餓対策機構のホームページには<共に食べる幸せ>という題で次の文が載せられている。「最近日本で問題になっているのが<孤食>です。(中略)どんなに高級な美味しい献立でも、その美味しさを分ちあう誰かがいないというのは寂しいものです」。たしかに、家族で食卓を囲む団欒を持っている家族からは、いわゆる問題児は生まれないのではないだろうか。日本では食の飢餓はもう無いが、かえって心の飢餓がふえている。その対策として、この基本である<食生活>を大事にすることから始めるべきではないだろうか?


 日系三世の友人、ジョアンから彼女の親戚の集まりについてはいつも聞いていた。このお正月に、サンペドロの親戚の集まりに伺う機会があった。とにかく印象的だった。まずうらやましいのは、親戚の方々が隣りあって住んでいることだ。彼女の妹さん、彼女のお母さんの従姉妹たちだ。年をきくと、八十代の方もいたが、みなピンピンしている。オレンジカウンティーに住んでいる彼女のお母さんや、北加に住んでいるジョアンが出向いて、親戚中が暮のうちに三日がかりで、お正月料理を作る。お寿司を作るのは若い人たちの役割だそうだ。テーブルに並べられたお正月料理は日本でも見られないような見事な手料理だ。そして、元旦には一日中、三世代、四世代もの親戚がお年始に出たり入ったりする。その数、七十人。ふだんは弁護士業の彼女もこの時には七時間立ち通しで、手際良く電気のフライ鍋で天麩羅をあげていた。その食材の準備、たとえば、エビ十ポンドをきれいにすることに、前日一日かけていたという。そこに彼女のすぐ下の妹さん夫婦や幼い甥たちも現れた。なんと麗しいことだろう。日本ではもう失われている光景だった。お正月、心がこめられた美味しい手料理を食べて一年を始める。孤食ということはない。幸せな家族だ。こんなことがどの家庭でも行われたらどんなにいいだろう。まさに人を良くする<食>である。


 リタイヤしたら、国際飢餓対策機構のボランティアなどをしたい気持はあるが、今の私にできることは、せめて美味しい物を家族に作ったり、孤食を余儀なくしなければならない方をお招きすることくらいだろう。幸い今ではマッシュルームを一ポンド買えるようになったが、そうなると、あまり美味しいとも思わなくなるものだ。


 今夜も食事の時に、夫に「マッシイッソ?」ときくと、「まあまあだな」という返事が返ってきた。