シリコンバレーから62   アカデミー賞授賞式にそなえて        竹下 弘美
 このたび、息子がNYU(ニューヨーク大学)のTisch Dept.〈芸術学部〉を卒業することになった。彼の専門は映画制作である。映画の専門教育としてはNYUはアメリカ、いや世界一の教育をしてくれるところだそうだ。息子は、これまでにも様々な映画やミュージックビデオの制作に係わってきたが、このたびは卒業を控えて最終作品の制作にとりかかり始めた。友人の中には、「そんな専門で反対しなかったの?エンジニアリングとか、プラクティカルな専門にすれば良かったのに」という人もいる。たしかに膨大な授業料で、借金だらけの上に卒業してもお金になるとは限らない。けれど最近、彼がやっていることは、私たち夫婦二人のやりたかったことだということに気づいた。
私の幼い日は映画で始まったような気がする。あるときは、幼稚園を早引きしてまで母は私を映画に連れていった。 私は幼稚園児だったが、その時観た映画の中で池辺良がハンサムだったのをはっきりと覚えている。もちろん白黒でカラー映画ではなかった。


 あるときには父に肩車をされて、バレリーナのモイラシエラーの「赤い靴」を見た。映画館は人がいっぱいで座る所がなかったからだ。最後のシーンでモイラシエラーが踊ることを止められず、赤いバレーシューズが脱げなくなって踊り続け、倒れて血が出るところは、髪をふりみだした靴屋の形相と共に今でも脳裏にこびりついている。私は父にしがみついた。怖かった。


 父と何回も見たのはアランラッドの「シェーン」だった。線路際の道を帰りながら、父が姉や私に延々と講釈を述べていた情景も目に浮かぶ。あのテーマ音楽の旋律は、音に対して鈍感な私にしては珍しく耳の中に残っているし、去っていくシェーンに向かって少年が叫ぶ、「シェーン、アイラブユー」の言葉には泣かされた。「シェーン」のときは夜道だったが、たいてい父と私は(母と姉はどうしていたのだろう)日曜日のマチネーに行き、帰り道、吉祥寺の駅前通りで必ずラーメンを食べるのがならわしだった。 熱くていつも鼻水が出て困ったのをおぼえている。その店の名前は覚えていないが、隣にロダンというカフェがあった。そこにはベレー帽をかぶった画家のような人々がたむろしているのが、外から見えた。


 ロードショウで「十戒」を観た。日々谷まで、家族四人ででかけた。有楽町や日々谷にロードショウを観にいくときには、いつも必ず数寄屋橋のホットケーキやさんに寄って帰ったのだが、「十戒」を観たときはお正月で、ホットケーキやさんには寄らずにお堀端を歩きながら,今見たすごい映画のインパクトを家族四人で話しあった。ローマ兵が“了解”という合図に拳で自分の胸を叩くのがおもしろく、しばらく家族の中で流行ったくらいだった。ところが、先日、テレビでやっていた同じ「十戒」はなんとチャチなことだろう。あのころ騒がれたシネマスコープやユル・ブリンナーの独特の持ち味や‘ユニバーサルスタジオの売り物であった紅海が分かれるところも、今の映画に慣れていると、とても陳腐に見える。映画自体の運びもかなりスローだ。


 「仔鹿物語」は父親役は若いころのグレゴリー・ペックだった。生きることがどんなに大変なことかを教えてくれた。それでも仔鹿を殺した母親が嫌いだった。

 幼心に美しいと思ったのは「ノートルダムのせむし男」の最後のシーンだ。配役は大男のアンソニー・クイーンがせむし男のガジモトに、ロロブリジーダがジプシーの女性だった。二人は愛しあうが、ままならず最後に二人で抱き合って死ぬ。その二人の抱き合った身体は骨になり、風化されて最後にLOVEという字になった。


 まあ、なんと我が家の両親は子供たちに映画を観せたことだろう。ほとんどが洋画だった。父は銀行員だったが、銀行の演劇部でディレクターをしていた時期もあり、その舞台を観に行ったときのこと、自動車の擬声音がブタの鳴き声に聞こえて笑ったのを覚えている。夫の方は、演劇や映画は卑しい仕事という感覚の家族の中で育ったようだが、社会人になってから、シナリオ教室に通って浦山桐郎や新藤兼人、篠田正浩などに指導を受け、今でも時々台本などを書いているので、息子といつも息投合している。


 そんなわけで、息子の作る映画のウエブサイト(www.shiftcinema.com)やブックレットを見ると、親馬鹿はつい楽しんでしまう。制作費が七万五千ドルという所で、気が遠くなるのだが。ファンドレイズのページをみると、五千ドル出してくれる人は映画の最初にエグゼキュティブ・プロデューサーとして名前が出るのだそうだ。そのことを知ってから、映画を見るときに気をつけるようになった。たしかにプロデューサーという所に多くの人の名前が出る。あれはお金を出した人の名前だそうだ。また最後のサンキュー・ノートにも協力者の名前が出る。息子は、まずいろいろな会社や個人にあたって資金集めをしている。これが成功して、どこかのフィルム・フェスティバルに入賞すれば少しは先が明るくなるだろう。


  私と夫は何年後かのアカデミー賞の授賞式に備えて今から身体に気をつけ、美容にも気をつけなければいけない。もしかしたらこの間のクリント・イーストウッドのように、ようやく七十歳くらいになってアカデミー賞をとるとなると、私は未亡人として一人で出席することになるだろう。息子は壇上でオスカーを掲げながら、ジャンクフードの食べ過ぎで早く亡くなった父親を偲んで、感謝の辞を述べることになるかもしれない。
こんな夢もタダだから見ることができる。ああ七万五千ドルか〜……。