| 溜 飲 |
| 私は肥満体である。身長170cmにして体重は優に100kgを超えている。自慢するわけではないが立派な肥満体である。しかし常々痩せたいとは思っている。諸々のダイエットに挑戦してきたが、いかんせん「旨いものを沢山食べる」ことを唯一の趣味としている私にとって、どんなダイエットも効果がない。「食べること」が生きがいなのだ。私は月給のほとんどを食べることに費やしているので、齢40を過ぎても未だ独身である。食べてみたいものがまだまだ沢山ある。結婚どころではないのである。 それでもスリムな体にはあこがれ続けている。やはりでっぷりとした体つきよりスリムな方が精悍な感じがしてかっこいいではないか、女性にもモテそうだし。それに最近は会社の健康診断でも痩せないと生活習慣病になるぞ、とか、早死にするぞと脅かされる。食べることを制限せず楽に痩せられる方法があれば、借金をしてでも試してみたいものである。でもそんな都合のいいことなど決して無いということを、今までの経験から充分に知っている。ここ数年、そんな矛盾した葛藤を抱えながらも旨いものを食べ続け、太り続けてきた。 でも今日からは違う。なんと私の目の前に究極の痩せ薬があるのだ。この薬を手に入れるために大枚をはたいた。一年分のボーナスに匹敵する金額だった。私にとっては大金である。いらないものは全て売り払い、何人もの友人や同僚に頭を下げて借金をし、やっとのことで手に入れたのである。えっ、その薬はどんなものなのかって。では、この秘薬を手に入れるまでのいきさつをお話しよう。 サラリーマンの生活は規則正しい。几帳面な私は毎日、同じ時間の電車の同じ車両の同じドアに乗り込んで通勤する。その男も几帳面らしく毎日その電車で通勤していた。私と同じく立派な肥満体だが、私より背が低く、私よりも太っていた。私はその男の姿を眺めることで日々溜飲を下げていた。奴もそのことを感じるのか、私と目が合いそうになると不機嫌そうにそっぽを向く。他人の姿を見ることで自分を慰めるなんてとても情けないことだが、私は何年もそうすることで、ちょっとした気晴らしをしてきたのである。 ところがこの数ヶ月で立場が逆転した。奴が痩せ始めたのだ。それも見る見るうちに。初めは病気にでもなったのか思ったがそうではなかった。ある日、奴の私を見る目が優越感に溢れていることに気付いた。何年にも渡って私が奴にしてきた仕打ちの仕返しをされているのだ。とにかくとても悔しいので乗る電車を変えようかとも思ったが、尻尾を巻いて逃げ出すようでそれもできなかった。屈辱の日々が三ヶ月以上も続いただろうか、ある日の朝、あろうことかだいぶスリムになった奴の方から私に話し掛けてきた。ここ数日冴えない顔をしているなと思っていたが、今朝も浮かぬ表情で私に声を掛けてきた。毎日顔を合わせているとはいっても通勤電車の中でのこと。当然互いの名前や素性を知るわけでもなく、話をするのも今日が初めてである。奴はどうしても話したいことがあるので会社帰りに駅のホームで会えないかと言って来た。とても怪訝に思えたが、奴がどうしてもと懇願するので渋々承知をした。 その日の会社帰り、約束した駅のホームに到着すると、奴は相変わらず浮かない顔をしながら私を待っていた。二人して駅を出て最寄の喫茶店へ入ると奴はおもむろに口を開いた。何年間も私からの屈辱的な視線に耐えてきたこと、痩せはじめてからは大いなる優越感をもって私を見下してきたことなど、私が感じていたことと同じような内容のことを話し始めた。そして奴は、明日海外に転勤になり当分の間こちらへは戻れないのだが、転勤が決まってから心境が変わり始めたと言い出した。自分は痩せ、太ったままの私を見ることで溜飲を下げてきたが、そんな自分が情けなくなってきたのだと。そこで海外へ行く置き土産として私にその痩せる方法を教えようと思ったのだそうだ。奴はそんなことをくどくど話しながら一枚の紙片を差し出した。そこにはとある漢方薬局の名前と所番地、漢方薬の名称に値段、それに簡単な地図まで記されていた。とても高い薬だが、その漢方薬局独自の調合薬で、効き目は抜群。一度飲んだだけで体質が変わり必ず痩せると言う。当然、食事制限などの拘束もない。食欲の赴くままに食事をしても全く問題なく痩せられるし、しかも二度とその体質は変わらないとも言った。その気があるならば是非試してみてくれと言い残し奴は席を立った。 あまりに意外な内容だったのであっけに取られてしまい、しばらくポカンとしているうちに奴は消えていた。夢でも見たかとも思ったが、件の紙切れは間違いなく私の手の中にある。コーヒーをもう一杯注文し、冷静になって考えてみた。奴の話に矛盾はないか、なぜ私にそんなに大切な情報をくれたのか、金を騙し取ろうとしているのではないか、奴を信じていいのかなどなど、いろいろな考えが頭の中を駆け巡った。しかし結論はすぐに出た。この話に乗ってみようと。奴が痩せたのは紛れのない事実だし、私にとっては大金である薬の値段も、薬局をも巻き込んでの詐欺にしては金額が小さすぎる。良心の呵責からここ数日浮かない顔をしていたという話にも納得がいく。だがそんな理屈よりも何よりも、奴が実際に痩せて行く経過を自分の目で見てきているのである。論より証拠。百聞は一見にしかず。喫茶店を出るころには大いに乗り気になっていた。 数日後、何とか金をかき集めた私はその漢方薬局の前に居た。胸が早鐘を打っている。勇んで店に足を踏み入れる。薄暗い店内には漢方薬の香りがぷぅんと漂っている。店の奥、カウンターの向こうに店主とおぼしき老人が周りの風景に溶け込むように座っていた。その老店主目指して一直線に歩み寄り、秘薬の名を口にする。老人の所作はスローモーションのようにゆっくりしていてまだるっこしい。効能をご説明しましょうなどとモゴモゴ言っている。その言葉をさえぎり、なけなしの金をカウンターの上に放り出して言い放った、とにかくその薬を売ってくれと。一刻も早くその秘薬を手にしたかったのだ。 このような経緯を経て、その秘薬は今、私の目の前に鎮座ましましている。奴は言っていた、効果はすぐに現れると。一晩寝て目覚めた時には体質が変わっているそうだ。明日の朝には太らない体質が現実のものとなるのだ。秘薬は直径2cm位の丸薬で、限りなく黒に近い紫色をしており、表面はつるっとしていて妖しい艶を放っている。気のせいか、いかにも効きそうな姿かたちに見える。噛まずに飲み込むには少々大きいかとも思ったが、意を決して口に含み、白湯と共に一気に飲み下す。食道を通り胃に収まったのが感じ取れる。これで明日の朝には大願が叶うのだ。今夜は熟睡できそうである。 あれから一ヶ月が経った。私はだいぶスリムになった。見事に体質が変わったのだ。秘薬の効果は抜群である。これからも痩せ続けることだろう。しかし、気分は非常に重く憂鬱である。これもあの秘薬のおかげである。実はあの薬、究極の痩せ薬でも何でもなかったのだ。鼻と舌の感覚がとても鈍くなる、言い換えれば味や香りをほとんど感じられない体質に変える薬だったのだ。口の中の感覚もだいぶ鈍くするようだ。食感や歯ざわりを感じないわけではないが、とても鈍くしか感じない。そうそう、もっと大きなオマケがついてきた。アルコールに酔わなくなってしまったのだ。正確には酔わないのではなく、どの消化器官もアルコールを吸収しない体質になってしまったのだ。何を食べても味を感じないし食感も悪い。ヤケ酒を飲もうにも全く酔わないし、アルコールの味も香りも感じられない。そう、風邪をひいて熱が出たり鼻が詰まったりすると味も香りも分からなくなり、食感も鈍くなる。ちょうどそんな感じなのである。薬の効果が切れればもとの体質に戻るなどということも期待できない。なにせ体質そのものを変えてしまう薬だったのだから。これが一生続くのかと思っただけで暗澹たる気持ちになる。何を食べても不味いし、酒を飲んでも全然酔わない。水と同じである。これで食欲が減退しないわけがない。正に「食欲の赴くままに食事をしても痩せて行く」の言葉どおりである。 奴の言うとおり、薬の効果は飲んだ翌朝から発揮された。朝食のパンもバターもジャムもミルクもコーヒーも、なんの味も香りもないのだ。トーストのザクッとした食感すらほとんど感じられない。ほどなくして事の次第を理解し、私は真っ青になった。そして会社に二、三日休むと連絡し、すぐに例の漢方薬局へと出向いた。目的は三つ。まず体質をもとに戻す薬がないかということ、二つ目はこんなとんでもない薬を詳しい説明もなく売りつけたことに文句を言うこと、そしてあの男の素性を確かめることである。 漢方薬局に着いたのは昼近い時間で、もう店は開いていた。血相を変えて踊りこんできた私を見ると、老店主は少し微笑むような、それでいて少し困ったような顔をし、私の言葉を待たずにこう言った。 「もとに戻る薬はないよ。」 私は耳を疑い、呆然と立ちつくした。そんな私の姿を見て老店主はとつとつと話し始めた。 あの薬は、嗅覚や味覚が普通の人の何倍もあるという特殊な体質の人(大金持ちだったそうだ)からの特別な注文で、老店主の全知識と全技術を注いで研究を重ね、何年もの間、膨大な試行錯誤を繰り返した上に完成したものだという。特殊な薬ゆえそう何度も調合することはないと思っていたらしいが、ある日のこと、どこで聞きつけたのか非常に太った人から注文があり、それ以来年に数人ほどこの薬を買いにくるようになったので、一つ売れる度に一つ作り置きしているという。また、この薬を求める人には3つの共通点があるとも言った。一つは皆が太っていること。二つ目は、老店主の説明をろくに聞きもしないで奪い取るように買っていってしまうこと。そして三つ目は必ず二、三日のうちに血相を変えて店に飛び込んでくることだという。その度に幾度となく同じことを繰り返し話しているのだそうだ。そうそう、アルコールを吸収できない体質になってしまうことがあの薬の唯一の副作用だが、別に健康を害するわけでもなく、かえって体にはいいことなのだから構わないだろうと言って笑っていた。ろくなもんじゃない。 呆然としながら老店主の話を聞いるだけで、期せずして私の三つの目的のうち二つまでが果たされてしまった。しかも意に沿わぬ形で。三つ目の目的も望み薄であったが、とりあえず尋ねてみた。結果はご推察の通り空振りである。それもそうだ。私の時だって薬を早く手に入れることだけで頭が一杯になっていて、自己紹介などしなかったではないか。他の人たちもそうだったのだろう。私は暗澹たる気持ちと絶望感を引きずりながら家に帰り本当に寝込んでしまった。 寝込んでいる間にいろいろなことが浮かんでは消えた。初めはとにかく腹が立った。私をこんな体にしたあの男が憎くてしょうがなかった。奴の単純な計略に簡単にはまってしまった自分にも腹が立った。奴の沈痛な面持ちだって、今考えれば大げさすぎたのに何の疑いも持たなかった。他人を見下したという、自分に対する良心の呵責だけであんな面持ちになるはずがない。奴も「食べる」楽しみを奪われて気鬱になっていただけなのだ。太っている人間で食べることが嫌いな人間はまずいない。食べ物に好き嫌いがあろうがなかろうが、食べること自体は絶対に好きなはずである。食べることが快楽であり、ストレス解消の道具だったりもする。その楽しみを奪われたのだ。今となっては奴のあの時の気持ちが手に取るように分かる。きっと奴も仔細を知らずにあの薬を飲んだに違いない。初めのうちは太ったままの私を見下すことで溜飲を下げていたが、そのうちに食べる楽しみを奪われた苦痛の方が大きくなっていったのだろう。そして積もりに積もった鬱憤を晴らすためにあんな計略を考えて私を陥れたのだ。今ごろどこかで苦しんでいる私の姿を思い浮かべ、大いに溜飲を下げていることだろう。奴の満足そうな顔が目に浮かぶ。そう考えるとまた腹が立ってきた。これほどまでに酷い仕打ちを受けねばならぬほど、奴に対して酷いことをしたとは到底思えない。ただ黙って奴の姿を見、優越感に浸っていただけなのだから。 真剣に奴をとっ捕まえて首でもしめてやろうかと思ったが、いかんせん何の手がかりもない。海外転勤が嘘か本当かも分からないが、仮に嘘だったとしてもこの大都会の中、砂漠で米粒を探すようなものである。奴だって用心し、うかつに鉢合わせするような場所でウロウロしたりはしないだろうし、もう少し時間が経てばすっかり痩せてしまい、すれ違っても気付かないほど外見が変わってしまうだろう。よほどの偶然でもない限りもう一度奴に巡り合うことはなさそうだ。考えがここまで至ると、もう奴の顔なんか見たくもないと思うようになった。 次に体質をもとに戻す方法を考え始めた。強い刺激を与えればもとに戻るかもしれないと思い、濃い塩水を飲んだり、飛び上がるほど辛い唐辛子をガリガリかじってみたり、大根おろしの汁を鼻の奥にたらしたりしてみた。結果は全部ダメ。闇雲に喉が渇いたり、胃がムカムカしたり、涙目になるだけだった。味覚や嗅覚をつかさどるのは脳みそなのだからどこかに頭を強く打ち付けてみようかとも思ったが、他に悪影響が出ても困るのでこの方法はやめておいた。 こんなこと考えたり試してみたりしているうちに万策も尽き、気が付けば丸三日が経っていた。とりあえず今のところはあきらめるしかないと悟った。 私は床上げした日から乗る電車を変えた。もう奴と出くわすこともないだろうが、何となく縁起が悪そうなので変えたのだ。あれから一ヶ月、暗澹たる気分は鬱積し続け、皮肉なことに体重だけは順調に減り続けている。日々、何か気晴らしになることはないかと考えているが、いかんせん人生で最大の楽しみを取り上げられてしまったのだ。おいそれと代わりのものが見つかるわけもない。それでも何とかしてたまり続ける鬱憤を晴らさないとそのうち精神に変調をきたすかも知れない。このあせりが更に鬱憤を積もらせる結果となる。早く何とかしなくては。 今朝も通勤電車のつり革につかまりながら何か気晴らしができないものかと考えている。ふと気付くと私に対して変な視線が注がれている。好奇心と期待と憧れと妬みが入り混じったような複雑な視線である。その視線をたどると一人の男に行き着いた。この電車に変えてからほとんど毎日顔を見かける男だ。やはり40歳前後のサラリーマン風の男で、よれよれのスーツを着込んでいる。私と同じような独り者なのだろうか。風采が上がらない。しかも大変に太っている。この一ヶ月、私が痩せ続けていることに気付いていたのだろう。私が視線を向けると、慌てて横を向いた。 突然、私の頭の中で何かが小さくはじけ飛んだ。心の中で悪魔が囁く。そして思った。 少し溜飲を下げられるかもしれないな、と・・・ 終わり。 |