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| 私は大手企業の一社員。今朝も起床し朝食をすますと自宅の一角にある小さなブースに入る。そこには精巧かつ複雑そうな装置が鎮座ましましている。ここが私の仕事場である。 このブースと装置は会社が設置したいわゆるコンピュータルームだ。今の時代、ほとんどのサラリーマンに通勤はない。いわゆる在宅勤務である。私の会社には数千人もの社員が所属しているが社屋はこぢんまりとしたものだ。地下のメインコンピュータルームの他には役員用の個室と幾つかの会議室があるだけの建物。役員をはじめ社員は年に数回、顔合わせ程度に出社するだけなのでこれで充分なのである。 在宅勤務の導入当初はフレックスタイム制が採られていた。1日のうちに8時間勤務すれば出社・退社時間および中座は自由というシステムである。これは社員には好評だったが、非常に不規則な勤務時間をとる者や短時間の中座を何度も繰り返す者が続出し、作業効率が極端に悪くなってしまった。そこで育児や家事、家族の介護など特別な事情がある者を除き定時出社が復活した。 支給されているコンピュータは定期的にメンテナンスされ、ハードウエア、ソフトウエア共に適宜アップグレードされている。はじめの頃はシンプルだった。小型のコンピュータにプリンタ、そしてメインコンピュータとの通信に必要な機器が支給され、自宅の好きな場所に設置してよかった。しかし自宅というものはどうしてもくつろいでしまうため、この環境に慣れるにつれて作業効率が悪化してきた。またコンピュータの設置環境も人それぞれに異なり、必ずしもコンピュータにとって良好な設置環境ばかりではなく、機器トラブルの確率も高くなってしまった。そこで畳2畳くらいの広さの専用ブースを設けて温度や湿度などを管理するようになったが、これはプライベートと仕事を空間的に分離するという副次的な効果を生み、作業効率は上がり、機器のトラブルも減少した。 誰しも閉ざされた空間にこもっているとだんだん気が詰まってくるものだ。昔のように隣の同僚と世間話をして気を晴らすことも出来ない。コンピュータには会議用にテレビカメラも付いているので同僚の顔を見ながらオンラインで話をすることも出来るが、その様子は逐一本社のメインコンピュータが監視しているのでおおっぴらにはやりにくい。短時間の中座は別に何の問題もないのだが、これもメインコンピュータがチェックしていることを知っているので心理的に頻繁には中座しずらい。いきおいストレスが溜ることになる。 このストレスが原因なのか体調不良を訴えるものが増えてきた。そこで体温、血圧、脈拍、発汗量、呼吸量などを測定する機器が増設された。これで社員の状態をチェックし、体調に合わせて「何分休憩を取れ」だの「医者へ行け」などの指示がコンピュータから発せられるようになった。表面的には問題解決。しかしこのおかげで手首と額にセンサーを着けなければならず、私はかえってストレスの度合が高くなった気がする。まるでコンピュータに縛り付けられているような気分である。 ここ数日はさらにストレスが高まっている。一週間ほど前にソフトウエアのアップグレードがあった。こいつがとんでもないシロモノだった。どういうことかというと、あろうことかコンピュータがミスをするようになったのだ。意味のない警告音が発せられるなどはまだいい方で、設定したアラームの時間がずれる、メールが届かずに戻って来る、目的と違うサイトに繋がる、果ては簡単な四則計算を間違えるなんていうことまで起きるようになってしまった。これが人間なら「ドジな奴だ」と笑って済ませられるかも知れないが、ことコンピュータにおいてこれらの症状は「異常」以外の何者でもない。自己診断プログラムを使ってみるが結果は「異常なし」。メインコンピュータからの遠隔診断でも「異常なし」だ。あげくの果てに「お前の操作が間違っている」といった内容の回答が帰ってくる始末。何人かの同僚に尋ねてみるがそんな不具合は出ていないと言う。打つ手がない。仕方がないので数字の計算などは手計算でチェックをする。どこにミスがあるか分からないから全ての資料を丹念に見直すしかない。非常に手間がかかり神経が磨り減る。私のストレスは最大限に大きくなっている。仕事の効率も極端に悪くなった。このままではクビになってしまうかもしれない。コンピュータなんて大嫌いだ。 あれから一ヶ月がたった。やっと状況が好転してきた。と言ってもコンピュータが正常に戻ったわけではない。相変わらず日に一、二度のミスは出ている。要するにコツを掴んだのだ。ミス自体はあらゆる場面で発生するので予測出来ないが、何と言ったらいいか、ミスの「質」のようなものが飲み込めたのである。みんな他愛のないミスばかり。こちらがちょっと気をつけたり、簡単な検算機能を組み込めばすぐに発見できる。仮に見逃してしまっても重大な問題にならないものばかりなのだ。最近は仕事をしながらちょっとしたゲーム感覚を味わっている。簡単な間違い探しゲーム。はじめの頃は会社に原因調査や修理の依頼を頻繁にしていたが最近は止めてしまった。ものは考えようである。今ではこの間違い探しが密かな楽しみになってしまった。思えば一ヶ月前よりずいぶんストレスが少なくなった気がする。 本社の会議室。社長を筆頭に役員が勢ぞろいしている。よほど重要な議題なのか、役員が一堂に会すのは昨今非常に珍しい光景である。 「それでは前回行なった極秘プロジェクトについて経過報告をしてくれたまえ。」社長の声に促されて一人の役員が立ち上がる。「特にストレスの度合が高かった社員数名に対して行なった特別プログラムへの書き換えについてですが、予想通り、導入当初はいくぶんストレスが高まったものの、現在は全員のストレスが大幅に減少しており・・・」 おわり。 |